第1回「どうしてクラリネットはバロック時代に沈黙していた?」

 第1回「どうしてクラリネットはバロック時代に沈黙していた?」
 
 みなさんはクラリネットがいつごろ発明されたのかご存知ですか?
 諸説ありますが、一般には、1700年ごろ、ニュルンベルクの楽器製作者ヨハン・クリストフ・デンナーによって発明されたと言われています。1700年といえば、ヴィヴァルディが有名な《四季》を発表する25年前。バッハはまだ15歳の学生でした。そのころにはもうクラリネットは存在していたのです。

 ところが、クラリネットが本格的に活躍するようになったのは、モーツァルト、それも後期の作品になってからだと言って良いかもしれません。モーツァルトがクラリネット協奏曲を書いたのが1791年ですから、それまでの90年間はいったい何をしていたのでしょうか?

 もちろん、6つのクラリネット協奏曲を書いたドイツのヨハン・メルヒオール・モルターを筆頭に、ヘンデルなどバロック時代にもクラリネットの曲はありました。「シャリュモーのための」となっているテレマンやヴィヴァルディの曲も、最近ではクラリネットのために書かれたという説が有力になってきました。
 けれども、バロック音楽全体から見るとその数は少なく、フラウト・トラヴェルソやオーボエのレパートリーの多さとは比べものになりません。これはどうしてなのでしょう? 今回はその謎に迫ってみることにしましょう。
 
 
 バロック時代にクラリネットが活躍できなかった理由は、楽器の構造の問題などいくつか考えられますが(この点に関しては別の機会に取り上げましょう)、もっとも大きな原因としては、他の木管楽器とは違い宮廷の楽器として採用されなかったことが考えられます。

 そもそも、バロック音楽というのは、王侯貴族の愉しみのためのものであり、フラウト・トラヴェルソやオーボエ、ファゴットは、パリの王宮の広間で演奏して上品な音がするように改良された楽器だったのです。そこに加わることができなかったのが、バロック時代にクラリネットが活躍できなかった理由に他なりません。当時、ヨーロッパの片田舎だったドイツで発明された新楽器など相手にされなかったのでしょう。
 
 バロック時代に宮廷で活躍した楽器には共通する特徴があります。それは、二調やイ調などシャープ系の楽器が多いこと。フラウト・トラヴェルソも事実上D管ですし、オーボエもフィンガリング上は同様でした。トランペットやホルンも基本はD管でしたし、弦楽器のヴァイオリンの調弦もG-D-A-Eとシャープ系です。おそらく華やかな響きを求めてのことだったのでしょう。
 
 しかし、当時のパリの響きはそれほど輝かしいものではありませんでした。彼らは非常に低いピッチを好み、現在のA=440より半音低いA=415ぐらいが主流だったようです。ルイ14世時代のヴェルサイユ宮殿はさらに低く、A=392ぐらいでした。
 
 一方、それに対して、クラリネットが生まれたドイツや隣りのボヘミアでは非常に高いコアトーン(A=466)が好まれていたようで、パリとは長二度の差がありました。

 
 パリの宮廷で採用されなかったクラリネットは、パリやウィーンなど大都市に出稼ぎに行きたいと考えていたボヘミアの楽隊たちに重宝されました。やはり、ボヘミアで改良されたホルンなどの楽器と共に、野外で演奏する管楽合奏「ハルモニー」を組んで乗り込んだのです。ハルモニーは、オペラを観に行くことができない市民たちに大歓迎され、その規模が大きくなっていきました。

 ハルモニーの流行に伴ってクラリネットの人気も高くなり、モーツァルトらによって積極的に用いられるようになったというわけ。モーツァルトが若いころはフルートやオーボエなど宮廷楽器のために協奏曲を書いたのに対して、晩年はホルンとクラリネットのために書いたのも象徴的ですよね。
 
 ここで注目したいのは、ハルモニーの調性が変ホ調や変ロ調などフラット系に限定されていること。クラリネットもB管だけで、ホルンもEs管です。シャープ系が中心だったパリとは正反対ですよね。
 
 実は、これは先述した地域のピッチの差と無関係ではありません。18世紀末のウィーンは、現在と同じA=440に近かったと言われており、A=466のボヘミアの楽器はちょうど半音高くなり、A管はB管に、D管はEs管のピッチになったわけです。
  
 半音高いハルモニーは市民革命の要請でその編成を増大していき軍楽隊になりました。そこには宮廷楽器の姿はなく、クラリネットが完全に主役。現在でも吹奏楽はクラリネットが中心でオーケストラよりも半音高いピッチでチューニングしますよね!